詩誌「アンリエット」に寄せて

まだ冒頭部しか読んでいないのですが、感情の奔流のなか、熱に浮かされるようにして書きました。拙い感想ですが、お読みいただければと思います。

大切な、大好きな作品集ほど先に進みたくなくなるというのが、天邪鬼たる私である。
作品と深くつながることは、自身の心のやわらかいところを差し出すことでもある。だから、少し怖いのかもしれない。

「ガラスの鍵」という、ルネ・マグリットの絵画がある。ガラスの鍵、という言葉が私は好きだ。絵画には描かれていないのだけれど、私はその鍵を想像する。それは透き通っていて、光をはじき、そうして脆い。
この世にはガラスの鍵でしかあかない扉や箱が、きっとあるのだと思う。怖さと引き換えにしかあけられない箱が。ガラスの鍵とは、私の傷つきやすい心でもある。また怖さとは、畏敬の感情でもあるのだろう。

そんな扉や箱にあと何度出逢えるだろうかと思いながら、愛おしさで、撫でている詩誌がある。手ざわりがつかねる花を色づかせるように、ある色彩を私の胸に与えていく。
まだ、表紙をひらいて、一篇の詩を読んだだけだというのに。移ろわぬように、また移ろいを許すように、この陶酔のなかにたゆたっていたかった。



峯澤典子さんと髙塚謙太郎さんの二人詩誌「アンリエット」が刊行された。デザインは片桐寿子さん。
「湖底に映されるシネマのように」という言葉が表紙と背表紙に書かれてあって、なにか物語のはじまりを予感させる。

寒色の涼やかな佇まい。「アンリエット」のロゴと、呼応するような(海外の街を、どこか高所の柵の裏側から見下ろすようなアングルだろうか)写真が慎ましやかに配されている。縦、横、斜めに文字が置かれて、各々が静かに呼吸を続けている。



「アンリエット(Henriette)」とは仏語圏の女性の名のことらしい。昨年、峯澤さんが編まれた「hiver」は仏語で冬の意だが、偶然にも「無音のh」という共通点を持ち合わせている。
日本においても、かつて古語の文字と音は一致しており、平安貴族たちは現在の「無音のh」(例えば、云うiu=云ふihu)をしっかりと発音していたという。それが、今は喪われている。

発音されることのない文字が在るということ。

私は、そこに「不在」や「非在」の匂いを嗅ぎとる。あるけれど、ないもの。これが、ポエジアにも深く繋がっていくのではないか。

唇を震わせて、ついにかたちとならなかった言葉。地に降り落ちる手前で融けてしまった淡雪。名を与えられる筈だった胎児。
書かれたことと、書かれなかった余白は、いつも等価だった。



「アンリエット」には冒頭に目次がない。
どうしても私は、真白な雪を踏みしめていく自身の歩行を想像してしまう。清らなようでいて、どこか背徳感を熾されるような疼きも感じるだろうか。

「一通」とだけ附された扉の頁があって、峯澤さんなのか、髙塚さんなのか、誰によってその詩が書かれたのかわからないまま「アンリエット」ははじまっていく。ただ、誤解を恐れずに言うならば、書き手などこの二人誌においては些細なことなのだとも思う。


この文章を読んでくださる方の楽しみを削ぐわけにはいかないので、作品の詳細には触れない。

ただ、「一通」という詩誌のはじまりを辿るとき、双眸は濯がれ、いま一度私の生を生き直すことを感覚した。
吐息に託される「アルファベ」(仏語だと英語と違って、最後のtは無音化するらしい)という語が、連の末尾に配されている。それは余白のなかに緩んで、いま眼前で滲みはじめる。いつしか、私たちと「不在」若しくは「非在」の者たちとを架橋していく。

一行一行があたらしい冷たさで、鮮やかな展開図で、そうして、なんという脆さなんだろう。

どれほどの優しさや注意深さで掬えば、辛うじて輪郭を保っているこの言葉たちを、損なわずに文字として留めることができるのだろうか。
そして、この書き手の眼差しはどこまでも柔らかくあたたかで、凛とした芯を持ち合せていた。



「湖底に映されるシネマのように」——。
この言葉を胸に抱いて。この詩誌の、お二人がひらいた「一冊」のなかへと、今ガラスの鍵をまわして心をすべて差し出してみる。

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