峯澤典子「螢」「Villa」を読む――川端康成「反橋」連作を補助線として

川端康成「みずうみ」について——“蛍”の表象

本筋には関係のない章のため、読み飛ばしても概ね問題ありません。

峯澤の「螢」に移る前に、川端作品における“蛍”の表象についてだけ、簡単に確認しておきたい。最も印象深い蛍の描写は、やはり戦後に書かれた「みずうみ」(昭30.4)におけるものだろう。

「みずうみ」の主人公桃井銀平は、現代の言葉で表現するのであればストーカーである。
猿のようだと自認する醜い足というコンプレックスに囚われる銀平は、美しい女性を見るとあとをつけてしまう。複雑なプロットを形成し、ジョイス的な「意識の流れ」を用いた「みずうみ」において、すべてがそうとは言い切れないものの、双方向的ではない、一方通行の恋慕というモチーフ(関係性)が反倫理的なストーカーという形式で表現されている。

やがて銀平は、町枝という十五歳の少女に惹かれる。
しかしながら、あとをつけても、話しかけても、町枝は銀平の存在にはまったく気がつかない。いわば、純粋な一方通行の関係性といえる。

なお再度繰り返すが、フェミニズム的観点からも、これまで述べてきたような川端文学の反倫理的な面は批判の対象になって然るべきである。(ストーカーが今日においても、過去においても社会的に認められるべきではない。)
しかしながら川端の作品を綜合的に見て、おそらく反倫理的なものを快楽的に書いているわけではないという点と、これをとおして川端がなにを描きたかったか、あるいは描かざるを得なかったのかという点を、取りこぼしてはいけないようにも個人的には考える。

銀平は町枝を見たい一心で貸しボオトのある掘での蛍狩りへ出かけ、ふたたび町枝を見かける。そうして購入した蛍を籠ごと、町枝の腰のバンドにひっかけ、立ち去る。

 銀平は欄干を離れて、町枝のうしろへ忍び寄った。ワンピイスの木綿は厚いようだった。蛍籠をさげる針金が鍵形なのを、町枝のバンドにそっとひっかけた。町枝は気がつかない。銀平は橋のはずれまで行くと、町枝の腰にぽうっと明るい蛍籠を振りかえって立ちどまった。
 いつのまにか腰のバンドに、蛍籠がひっかかっていると、少女が知った時にどうするだろうか。銀平は橋のなかほどにもどって人ごみにまぎれながらうかがったって、なにもそう、少女の腰にかみそりの刃で切った犯人ほどに、おそれることはあるまいに、足が橋をうしろにして行った。この少女によって今、銀平は心弱い自分を発見した。発見したのでなくて、心弱い自分に再会したのであるかもしれない。そんな風な自己弁護みたいなものにうなずいて、橋とは逆のいちょう並木の坂道の方へしおしお歩いた。
「ああっ、大きい蛍。」
 銀平は空の星を見て蛍と思って、少しもあやしまなかった。むしろ感動をこめて、「大きい蛍だ。」と、もう一度口に出した。

川端康成「みずうみ」(昭30.4)

ここに刹那かがやいては散ってゆく、かなしみの火花がないか。
銀平が町枝に触れることはない。蛍が媒体となって、辛うじて両者をつなげる。(ただし、町枝にはわからない。)

[……]橋の上に残して来た少女の幻はこのいちょう並木の下を歩いている。蛍籠をさげて恋人の病気見舞いに行くのだった。
 銀平はただそうしてみたかったので、なんのためともなかったが、自分の心を少女のからだにともすように、蛍籠を少女のバンドにひっかけたと、後からは感傷で見られるだろう。しかし少女は蛍を病人にやりたがっていた。そのために銀平は蛍籠をそっと少女にくれたのかとも思えるのだった。
 白いワンピイスのバンドに蛍籠を吊るして、恋人の病気見舞いに、いちょう並木の坂道をのぼる幻の少女に、幻の雨が降るなんて、

「ふん、幽霊としても平凡だぞ。」と銀平はみずからあざけるものの、町枝が今も橋の上に水木という学生といるなら、この暗い坂道にも銀平といなければならないのだった。

川端康成「みずうみ」(昭30.4)

一方で、水木が「蛍なんて陰気くさいもの、お見舞いにはよくないよ。」「さびしいよ。」と町枝に告げるように、短命の蛍は死の匂いを纏った、はかない存在でもある。

そうして銀平は、あったかもしれない生の幻を見る。銀平も、蛍のはかなさを知らないわけはないだろう。これもまた、ひどくむなしくかなしい。それでもなお、ふれえない若さ、美、幸せを表象する町枝の腰に蛍籠をかける行為には、ストーキングという倒錯した経路をたどった末の、銀平なりの生の肯定、祈りがあるように思える。

「みずうみ」には、美と醜の問題や、「意識の流れ」の問題など、複数のモチーフが存在する。下の引用部のように、作中に描かれる(記憶上の)「みずうみ」もまた、“母なるもの”の表象であり、初恋の相手で銀平に「猿みたいな足」というコンプレックスの意識を植え付けた、やよいの記憶も「みずうみ」に付随する。そこを飛ぶ、蛍の幻もまた示唆的ではあるが、脇道に逸れすぎるためここでは検討しないこととする。

銀平はこのごろでもときどき、母の村のみずうみに夜の稲妻がひらめく幻を見る。ほとんど湖面すべてを照らし出して消える稲妻である。その稲妻の消えたあとには岸べに蛍がいる。岸べの蛍も幻のつづきと見られないことはないが、蛍はつけ足りで少し怪しい。稲妻の立つのはだいたい蛍のいる夏が多いから、こういう蛍のつけ足りがあるかもしれぬ。いかに銀平だって蛍の幻をみずうみで死んだ父の人魂などとは思いはしないが、夜のみずうみに稲妻の消えた瞬間は気味のいいものではなかった。その幻の稲妻を見るたびに、陸の上に広く深い水が動かずにあって、夜空の光りを受けてさっと現れることに、銀平は自然の妖霊か時間の悲鳴を感じるようにどきっとする。稲妻で湖水すべてが照らし出されるのはおそらく幻影のしわざで、現実にはないだろうとは銀平も知っている。しかし大きい稲妻のきらめきに打たれたら、空の瞬間の光明が身のまわりの世界の一切を照らすと思うかもしれない。

川端康成「みずうみ」(昭30.4)
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