おわりに—— 「たましい」の彷徨としての詩篇
詩は、「Coffret」そして最終の「恋」へと流れる。
ガストン・バシュラール『空間の詩学』の「序論」に以下のような文章がある。少々長いが引用する。
〔……〕多くのばあい、われわれは、詩はたましいの働きであることをみとめなければならない。たましいにむすびつけられた意識は、精神の諸現象にむすびつけられた意識よりもはるかに静謐であり、非志向的である。詩のなかには、知識の迂路をへない力が表白される。霊感と才能の弁証法は、たましいと精神という二つの極を考察すれば、ときあかされる。〔……〕夢想はあまりにも夢と混同されているが、夢想は霊魂(プシシズム)の一つの状態である。しかし詩的夢想、すなわちみずからをたのしむばかりか、また他のたましいにも詩の愉しみをあたえる夢想が問題になるときには、われわれはもはや夢うつつの境にさまようわけではないことを十分しっている。精神はくつろげる。しかし詩的夢想においては、たましいは緊張をとき、静かに、しかも活潑に、目ざめているのだ。構成のみごとな完全な詩をつくるには、精神があらかじめその草案をえがく必要があろう。しかし単純な詩的イメージは、草案はない。必要なのはたましいの運動だけだ。一つの詩的イメージによって、たましいはその現存を告知する。
ガストン・バシュラール、岩村行雄訳『空間の詩学』(筑摩書房、昭和44.1)
峯澤の詩には「たましい」がある。
バシュラールの論に沿って書くならば、詩作者の態度についてということになろうが、峯澤の詩は、「Villa」における「ゆめ」のような、あるいは幼少期にまでさかのぼるような記憶を軸としたものが多く見られるものの、先にも述べたとおりで、感傷的な甘さがない。これは、(抽象的な表現が許されるのであれば)強靭な詩(ポエジー)の「たましい」が宿っているからであろう。
そしてパラレルな位相で、「窓と罪」の詩群——作品世界についても同様のことが言えるのではないか。
「わたし」にとっても「あなた」にとっても、「ゆめ」は現実から逃避する場では必ずしもない。「螢」において、「わたし」が個の生物としての命のはかなさをじっと見つめるように、醒めながらにして「ゆめ」を見ていると言える。さらに言うのであれば、他者そしてその先に見据える生へとつながるために、「ゆめ」という逆説を辿るのであろう。
まぶたをとじて
会える人は
生きているの
死んでいるの
峯澤典子「Coffret」のうち「香」
しかしながら、二篇とも人称は描かれないものの、「あなた」はもう、その命を散らしたのであろうか。そして、残された「わたし」にとって、なおも残るものとはなにか。それこそが、「たましい」なのではないか。
朝でも薄暗い小道を通る人はいない。だから冷えたままのこころで。昨日と、先月と、数年まえとおなじ毛布にくるまって眺めていられる。〔……〕人であったことをしだいに忘れていくもの同士の真冬の通信のように。
峯澤典子「格子」
瞬くために命はあるのでしょうか。
命のために瞬くのでしょうか。
峯澤典子「螢」
〔……〕はじめておなじ旋律を重ねたとき、彼の血管を流れていた雨音のヴィラ。長く凍えていたふたつの心臓の通路で小さな吐息の指先にそってゆっくりと溶けていった真昼のパールと、真夜中のオパール。それはふれあう肌の内側か外側かも、もうわからないヴィラ。〔……〕
峯澤典子「Villa」
これまでの詩篇に書かれてきた「こころ」「命」「心臓」という印象的なことばの先、「Coffret」において「わたし」は「たましい」ということばにたどり着く。
海の底の
闇しか知らぬ目で 生まれ
水からはなされるきわに
るる、
ちいさくうたったはずの
真白いたましいが ふたつ
ようやく めぐりあい
峯澤典子「Coffret」のうち「耳/真珠」
また、「Villa」においては、次のような時間感覚が見られる。
〔……〕潮騒。数十年、数百年のあいだ波と砂しか映していない壁一面の鏡は風にしだいに浸蝕され、もはや誰にもゆめ見られることのない空のゆびをすべっていく、彼女の、彼の、白い息とオパール。
峯澤典子「Villa」
〔……〕数十年まえに、いいえ、数百年後に贈られたまま開封されていない口紅の赤が鏡の広間に点々と灯り。〔……〕
峯澤典子「Villa」
「Villa」における空間的/時間的な広がり。
これは、“いま在る”「彼」と「彼女」の生ではなくて、身体や精神、記憶の埒外にある、生まれる前の世(だからこそ、「ようやく めぐりあい」というのだろう)や、先の世までをとらえる、「わたし」と「あなた」の孤独な「たましい」のありようを示しているのではないだろうか。
さよなら
いつか、
また
永遠に宛所不明の海文字の天窓に
ふる るる、
みなしごの星屑へと
おなじ時刻に
生まれかわれたのなら
峯澤典子「Coffret」のうち「文」
そしてこの、「Coffret」末尾におかれた「生まれかわれたのなら」という、一心な「わたし」の願い。身体は朽ち、精神は泡沫となり、記憶が忘却されて「わたしたち」の「ゆめ」が絶たれてもなお、いつか「たましい」によってまためぐりあいたいという願いである。
それは人であるかもしれず、「星屑」であるかもしれず、あるいははかなくとも懸命に光を燃やす、一匹の「螢」であるかもしれない。その際限のないくりかえしのなか、孤独な「たましい」は「あなた」をさがして幾度も彷徨するだろう。
〔……〕
ゆめのなかのくちびるをいちどだけ
寄せあった
峯澤典子「恋」
〔……〕
ひとはるの罪の名と 名を
ながいねむりの櫂として
しらうめ つばき もも さくら
あなたの
みずのそらは
人のいろへと
暮れてゆく
峯澤典子「恋」末尾
最後に、「恋」を引用する。
「罪」の名でもってしか繋ぎ止められなかった「あなた」、あるいは「わたし」の生だった。
「あなた」への感情に「こい」も「あい」という名付けも許されなかった「わたし」のとって、「ゆめのなかの」くちづけによる「罪」という名付けのみが、これまでの、“いま在る”生へのよすがだったのではないか。
あるいはその名付けは、「ゆめ」から現(うつつ)へと戻り、最後みずからも「ながいねむり」にむかう「わたし」の「たましい」と「あなた」の「たましい」とを結びつけようとする、“いつかの”生へのことばの祈りだったではないか。
筆者はその「わたし」の「たましい」のなかに、反倫理的な名付けに向かわざるを得ないかなしみと、美と、そして逆説的な生への祈りの、かがやかしいつよさを見るのである。
(了)

参考文献一覧
詩誌「アンリエットVol.1」「湖底に映されるシネマのように」(令和6年10月)
詩誌「アンリエットVol.2」「窓と罪」(令和8年1月)
ネットプリント「une lettre 一通の詩 no.5」(令和7年7月)
川端康成『反橋|しぐれ|たまゆら』(講談社文芸文庫)
川端康成『みずうみ』(新潮文庫)
川端康成『川端康成随筆集』(岩波文庫)
ガストン・バシュラール、岩村行雄訳『空間の詩学』(ちくま学芸文庫)
