峯澤典子「螢」について
以下は筆者独自の解釈、読解になります。
詩の味わい方は自由です。ご自身の感じ方を大切にしてください。
さて、前置きが随分と冗長になってしまった。
以上のことを踏まえて、峯澤の「螢」を見ていく。先の引用を繰り返す。
あなたはどこにおいでなのでしょうか。
峯澤典子「螢」冒頭
ひとつ。またひとつ。
ひとつ。またひとつ。
ひかる姿を川面に映しては消え、まだ生きていることを仲間に教えあうようにふたたび瞬く。あの真夜中の火の集まりはまぼろしだったのでしょうか。
これまで見てきたように、【『源氏物語』――「継子伝説」――「反橋」連作——峯澤「螢」】という階層、位相が存在するように筆者は考える。いわば「あなたはどこにおいでなのでしょうか。」という澄んだ呼びかけを鍵として、和歌における本歌取りに似たような、叙景の重なりがあるように思えるのだ。
前述したように「螢」単独でも自律しているが、ここに古来連綿と語り継がれてきた母子の物語を重ねることで、また違った面白み、さらに言うのであれば抒情の“襲(かさね)”が感じられるのではないか。
濃い闇のなかでは、血のつながった人といても、手をつないでいても。父も母も、わたしも、ほんとうにこうしてどこまでもひとりきりなんだとはじめて、思いました。
峯澤典子「螢」
しかしながら、まず押さえておきたいのは、(言うまでもないことかもしれないが)峯澤の「螢」がそのまま「反橋」連作と重なるわけではない、ということだ。
たしかに、「あなたはどこにおいでなのでしょうか。」という呼びかけ、幼少期の追憶、肉親との思い出、そして敬体という語り……など、「反橋」連作との表面上の類似点はいくつかあるだろう。ただし、「反橋」連作の「私」の孤独と、「螢」における「わたし」の孤独は、あきらかに異なる。
「螢」においては、(おそらく語りの時点で、両親はすでに亡くなっているのだろう)肉親の喪失というテーマもあるのかもしれないが、その地点からさらに進んで、生物の個体としての孤独が描かれているのではないか、と見る。皆等しく死にむかって晒されており、孤独の飢(かつ)えは肉親の生き死にに左右されるわけではないという、粛然とした一つの真理でもある。
また、他者としての父母の言動が前景化するというよりも、「わたし」自身の気づきに重点がおかれ、言葉をもたぬ螢との対話が主であるようにも感じされる。
暗がりに目が慣れてくるとそこかしこであかるむ虫たちの気配が感じられました。弱くとも途切れることのない命の点滅が水のうえに浮かんでいます。ひとつ。ふたつ。みっつ。灯っては消え、消えては灯り。
峯澤典子「螢」
誰が、誰を、なぜ、こんなにも呼びつづけているのでしょう。
「誰が、誰を、なぜ、こんなにも呼びつづけているのでしょう。」という、痛切な問い。これを発しているのは、幼少期の「わたし」のようにも、いまの「わたし」のようにも、また言葉を持たないはずの螢たちの声のようにさえ思われて来る。
我々は皆、漏れなく根源的な孤独を抱えて、いま在る。
そのかなしみのなかで、なおも何者かを呼びつづけている。
「反橋」連作をはじめとして、川端文学における孤独とは、あくまでも外部に在る他者との関係性において規定されると筆者は考えている。すなわち、例えばこれまで見てきたような“母なるもの”への恋慕を他者のうえに投影することで、孤独を解消しようとする運動において、である。(もっとも、孤独は解消されずに挫折するのだが。)
対して峯澤の詩においては、川端文学では他者に向かう筈の孤独の視線は折れ曲がり、自己にむかって照射される。孤独との対話は、あくまで自己の内部でのみ行われていくように思われる。孤独的とも言える世界の、内面化である。
「螢」単独においては、川端の「反橋」連作で「悪心の芽生え」とされた、反倫理的な経路を辿ることはない。そのため、
あなたはどこにおいでなのでしょうか。
という呼びかけは濁らず、澄んだ響きを保持するのである。
ここにまず第一として、「反橋」連作を本歌取りしたうえでの「螢」という詩の達成があると考える。
峯澤の詩における双子的なモチーフについて
先ほど、「峯澤の詩においては、川端文学では他者に向かう筈の孤独の視線は折れ曲がり、自己にむかって照射される。」と書いたが、これについてもう少し深堀りしてみたい。
川端文学において、双子的なモチーフがしばしば登場することは先に述べた。
その際には、(『古都』など例外はあるものの)作品主体は別にあり、あくまでも他者として双子的なモチーフが採用されている。キュビスム的(多面的、多角的)ともいえる。「反橋」連作については、詳しく述べたとおりである。
峯澤の詩においても、部分的に、この双子的なモチーフが出てくることには注目したい。
しかしながら重要なのは、他者としての双子ではなく、自分と対になる存在としての双子(あるいは姉妹)という点である。ここで「アンリエットNo.1」に収められた「空き部屋」という詩を数か所引用する。
〔……〕くさむらには かすかに見覚えのある 鴇色のシフォンのスカーフ(わたしには この早春の淡いしるしを貸しあった姉か妹がいたのだろうか)〔……〕
峯澤典子「空き部屋」
〔……〕真夏のもどり道で唯一ねだった 青い貝殻色のカスタネット の片方 燃え残る やはり片方だけのトウシューズ〔……〕
峯澤典子「空き部屋」
〔……〕(そこでなんども手をふるのはだれ)それらもまたすぐに消え だれもいない空き地 最後に別れた人が(それはわたしによく似ただれか)もういちど振りかえるかわりに 胸のなかに灯していった ほんの短い記憶の火で〔……〕
峯澤典子「空き部屋」
〔……〕だれの目にも映らずすばやく海風に流されてゆく 透明な姉妹たちの 花模様に似た一語を〔……〕
峯澤典子「空き部屋」
峯澤の詩における双子がある種川端的と言えるのは、あるかもしれなかった時間・空間(=存在)をそれぞれが表象するという点においてである。たとえば、「反橋」連作では、継母が、実母が生きる筈だった存在を生きている。
ただし峯澤の「空き部屋」は、一人称の作品主体が双子の片方であるため、自然ともう一方の存在は不在者(あるいは非在者)になる。そして、峯澤の詩における双子(姉妹)的なモチーフは、自己の喪われた分身でもある。他者であり、自己でもある。
先に「孤独的とも言える世界の、内面化である。」と書いたが、飛躍を承知のうえでさらに踏み込んで書くならば、峯澤の詩における他者とは、ある側面においてはこの“双子的なもの”で、自己の外部に存在する(社会通念上の)他者と、自己の世界において存在する他者とがそれぞれに存在し、後者においては、内面世界で分離と融解を繰り返す。
これが、峯澤独自の夢幻の風景とも言えるのではないだろうか。
