峯澤典子「螢」「Villa」を読む――川端康成「反橋」連作を補助線として

峯澤典子「紅」「Villa」における他者性の超越について

さて、これまでのことを踏まえつつ「紅」という散文詩、そして「Villa」へと戻っていきたい。隔てられて配置されたこの二篇の詩は、細かな語彙の共振においても内容においても、互いに呼応し合っているように見える。

まずは、「紅」について。
ここでもやはり、秘密の恋についての言葉が交叉していく。

人称についても今一度確認しよう。

一夜の障子の 月あかりをはじめて分けあうように まつ毛の青 耳の桃いろ 頬の白を冷えた手のひらにようやくうつせば あなたのひらきはじめた紅は たがいにくちをしなかった夜あけのふた文字を ぼくのまぶたに預けた

峯澤典子「紅」冒頭

〔……〕わたしはあなたから 遠い水辺 草原 雲間で 変わらずに生まれつづける 夜あけの紅の ひとしずくを なんどでも その とじはじめた くちびるへと

峯澤典子「紅」末尾

このように、冒頭が【ぼく―あなた】の関係性であるのに対し、末尾では【わたし―あなた】に変化している。「紅」では、双方向的な語りが一篇の詩のなかにシームレスに共存している。

先にも簡単にふれたが、「紅」において「ぼく」は死の床に臥せているのだろうか、「あなた(=わたし)」と再び一緒になる前に、自らの命がはかなくなってしまうことを予感している。

〔……〕最後までくちにできなかったふた文字を あなたの消えかかる紅が それでもともになぞろうとするまえに ぼくの一生の夜は あっけなく あけてしまう

峯澤典子「紅」

また、どういうわけか「わたし」も、「あなた(=ぼく)」の灯が消えようとすることを察知する。そうして、夢のなかと解するべきだろうが、そのとじかけているくちびるを露でぬらそうとするのである。(あるいは、この「紅」での交感があるからこそ、「わたし」は幼少期の「螢」の記憶を思い返したのかもしれない。)

「紅」において描かれた呼応する「わたし」と「ぼく」の吐息は、「Villa」という詩においてより濃密に混ざり合う。ひとつの白眉である。

夜明け。ゆめから覚め、ゆめを見る。波が引き、現れる。あるいは消えてゆく。誰かのつま先。それは幼いままで冷たくなっていった白い鳥の羽根。はじめて拾った桜貝のような浅い眠りの輪。すべてはふれるまえに飛ばされてしまう無数の泡だとしても。遥かな人と同時に目をとじたときにだけ帰れる海岸。近いようで辿りつけない対岸の花びらの血が白砂に混じって。〔……〕

峯澤典子「Villa」

夜明け。最後の別れのまえの空の藍と紅を同時に沈めた。やわらかなまなうらの砂の城が崩れはじめる、彼女と彼のすでに淡いゆめの境目で。彼が遠く離れれば、彼女の体の内側か、外側なのかもうわからないヴィラ。輪郭が少しずつうすらいでゆく砂時計のやはり内側なのか外側なのかわからない国の。離れたままで、ふたりが同時にひと冬を越すための。〔……〕

峯澤典子「Villa」

まずは人称を見たい。

二つ目の引用部では、「彼女」「彼」という三人称が用いられている。「Villa」のなかで「かつてはあなただった彼の、わたしだった彼女の」と語られるように、この「彼=あなた」「彼女=わたし」であることが分かる。ここで、一人称/二人称から三人称へと変換されることで、【あなた―わたし】の関係性が断絶する様を示すとともに、言葉による描写に一定の客観性を与える。(附言すると、この箇所の語り手は誰かという話にあるが、「わたし=彼女」であることから、「ゆめ」から醒めた「わたし」による客観視なのかもしれない。あるいは「ゆめ」の「海岸」それ自身の記憶が語る、情景かもしれない。

そして、やはり重要なのは「ゆめ」について、である。

遥かな人と同時に目をとじたときにだけ帰れる海岸」と形容されるように、隔絶された彼」「彼女」は、お互いが「ゆめ」のなかにいるときのみ、密やかに逢瀬を重ねることができるのではないか。(そう考えると、「螢」における「あなたはどこにおいでなのでしょうか。」もまた、「ゆめ」のうちにある「彼女=わたし」の問いかけなのかもしれない。)

くわえて「彼女の体の内側か、外側なのかもうわからない」というように、それぞれの孤独な内面世界のむこう、「ゆめ」のなかで「わたし」は記憶にある内なる「あなた」を超え、「彼」という外部(=他者)に触れえることができるのだと考える。たとえ、それが「わたし」の見ているひとつの、夢想の変型だったとしても、「わたし」の信じるかぎりにおいては。

これは、川端や『源氏物語』における外部への「ゆめ」の投影とは異なる、ただただ内なる「あなた」を真摯に見つめ繰り返し呼びかける「たましい」が、やがて「ゆめ」を介して他者へと通じていくという、一見してはかないようにみえるが実際には強靭で粛然とした、峯澤の詩の態度である。

またこれは、近世以降における「情念」といったようなものよりもさらに原初的な(だから「たましい」というのだ)、古代・中古の和歌に描かれるひとり寝の女性が夢で思い人に逢うような、澄んだ「あい」のかたちではないだろうか。

(あれはきみの白い……白い骨。そう、わたしの骨。いいえ、わたしたちの白い……。でも、もう何も、覚えてはいない)

峯澤典子「Villa」

しかしながら、人は皆死に晒されてあり、命は有限である。

わたしたちはいまも目をそらしたまま、幾千の瞼の脣の頬の髪の手足の結ばれた火の朝と夜を、どんな遠景よりもやわらかな肌を、死ぬまでに、すべて、忘れてゆく。

峯澤典子「Villa」


「Villa」においては、冒頭部の丸括弧で囲まれた部分が「ぼく」の「ゆめ」で、中盤部以降は「わたし=彼女」の視点から語られ、時折丸括弧の「ゆめ」のなかで【あなた―わたし】(=わたしたち)の、吐息が呼び交わすように溶け合う。

「ゆめ」や記憶をふくめた様々な空間、そして時間が何層にも織り込まれていく。そのなかにも「わたしたち」の身体が、感情を閉じ込めた物の綺羅めきが、鏤められている。

それでも、これまでにもふれてきたように、「彼」はもう死の間際にいるのではないだろうか。あるいは、引用部にあるように、「わたし」ももう、この世にはいないのだろうか?

〔……〕ぼくはまだあなたを? 顔も忘れかけた、もしかしたらいちども……したことなどないはずのあなたを。名前すら忘れかけた、ほかでもない、きみを……)

峯澤典子「Villa」

「彼=ぼく」の意識は混濁し、すべてが忘却の涯へと流れ去ろうとしている。
身体の死滅によって、精神もまた消滅する。記憶もそうだろう。

もう何も映さない彼女の心臓の広間を埋めることばは灰。フ、という微風の笑い声のような灰の花びらのうえにふる、誰も目をひらけないほどの過去のひかり(ならば終わるまでとじていて)。はじめから座礁した恋人たちのどこにも流れつかない郵便も空耳。もう誰にもゆめ見られることなく。ふたりからも忘れられた左胸の彼方で、永遠に現れては消えつづける真冬のヴィラ。〔……〕

峯澤典子「Villa」

そして「わたしたち」の「ゆめ」もまた、忘れ去られるのである。

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